買いだめしていたBlu-rayから、アンドレイ・タルコフスキー監督『鏡』(1975年)を見た。

『鏡』は以前、映画館で見たことがあった。今はなき天六ホクテンザでどういう訳かタルコフスキー特集が開催されていて(いま考えても解せないのだが、本当にどういう訳か天六の映画館でかかってたのだ!)、私はそこで見て、見始めてすぐに寝てしまうという自己最短?記録を持っているほどで、要はほぼ初見に近い。

その後、タルコフスキーの特集は色々な映画館であったのだが、『鏡』(と『アンドレイ・ルブリョフ』)はどういう訳か勤務と重なったりで見られるチャンスがなく、そのままになっていた。そこへ先日『鏡』2Kレストア版のBlu-rayが発売となり、それならばと思い切って購入し、遂にその封を開けたのだった!(大げさな)

とはいえ、不思議なもので、すぐ寝たとはいえどこか記憶は残っていて、冒頭突然登場する吃音治療の場面。あそこはなんとな~く覚えてましたね。いや、それがタルコフスキーの『鏡』の冒頭と直結していた訳ではないんだけど、でも、なんであんな場面が!?みたいな、ヘンな何かを見た記憶として、どこか残っていたみたいだった。

で、考えたらこの『鏡』という映画も、主人公である「自分」が過去にあった記憶?(それも多くは母親をめぐるもの)や、いま現在の「自分」の思いを巡らしたり、それらが一本のきちんとしたストーリーとしてあるのではなく、コラージュして綴られていく作品でもあると受け止めたので、まあ、一般的に言われてるように確かに難解ではあるんだが、寧ろ48年を経た今となってこの映画に接してみると、意外とすんなり見れてしまった…というか寝なかったのだ!!!(威張ることかw)

ただ、今回ほぼ初めて『鏡』を見て、少々ビックリしたこともあって、例えばそれは雨の中を母親が職場へと走り、仕事内容に失敗はなかったか急いで確認するくだり。そこでのカメラワークが物凄くエモーショナルで、いま見ても驚くのだが、そこで同僚の女性から「これだから旦那に愛想尽かされるんだ」みたいに延々非難されてしまう。

これ、一体どういう場面なんだろう。ていうか主人公の「自分」が持っている記憶なのだったら、何故そういう場面が出てくるのか? それともこれは「自分」が母親にそう感じていたの? ならば何故同僚の女性が出てくるの? 仮にそれが本当にあったこととして、何故それが映画に採用されるの? と謎だらけになってしまうのだ。

他にも、よくよく台詞を聴いていったら、この「自分」にとって母親とはあまり良き関係にはなっていないようで、だからこそ、屈折してますよね、これ。私は思わず寺山修司を思い出してしまった。『鏡』はどこらへんまでがタルコフスキー自身を反映、投影しているのか、どこらへんがフィクションなのか、よく分からないけど(セルフドキュメントみたいなフィクション?)、タルコフスキーにとっての『田園に死す』みたいなもんなのか?と思ったり。(違います)

 

あともうひとつビックリしたのは、思いの外、怪奇な描写が幾つかあったこと。なかでも個人的に好きだったのはコレ。

現在の「自分」が別れた妻との間にできたひとり息子を数日預かることになる。息子が父親(主人公である「自分」)のアパートにやってくると、そこに何故か女が座っていて、召使いが持ってきた紅茶を飲みながら、本棚にあるノートの赤線が引いたところを読んでくれと言う。この内容もまた不気味なんだけど、読み終えてふと視線を向けると、女の姿もティーカップもなく、しかしポツンと置かれた机には、熱い紅茶をいれたカップがさっきまで置かれていたと思しき熱気だけが残っていて、それもスーッと蒸発していく………悲鳴のような音楽と共に……。

思わず「黒沢清みたい」と息をのむ(笑)。

まあ、この場面が日本のホラー映画にどれだけ影響を受けてるとかは分からないけど、それよりもタルコフスキーってこんな場面を作るんだ、私が勝手に抱いていたタルコフスキー像って一体何だったんだろう、と思ったりして。

もっともそれは『僕の村は戦場だった』や『ストーカー』を映画館で見直したときにも抱いたことだったが。前者は若い男女の恋愛のくだりの描写で、後者はゾーンに入っていくところで一種の活劇みたいに感じるところで、それぞれビックリしましたからね。

 

とまあ他にも、冒頭の柵に腰掛けてる母親の元に男が現われ話しかけてくるシーンが大好き(タルコフスキーが作るチェーホフとか見てみたかったよね。いまやプーチンの忠実なイヌと化したミハルコフなんかにやらせずに)とか色々書けてしまいそうで、難解とか通り越して、なんだか妙に楽しく見てしまった、ほぼ初見の『鏡』なのでした。