シェルタリング・スカイ

坂本龍一さんの追悼もあったが、以前から再見したかったこともあって、U-NEXTでベルナルド・ベルトルッチ監督『シェルタリング・スカイ』(1990年)を久々に見た。

確か、封切りの時は見ていなくて、どっかで再上映したときに見たような記憶があって(たぶん、上本町にあったACTシネマテークだったような…)随分記憶が朧気だったのと、むかし淀川長治さんとおすぎさんの対談でこの作品が取り上げられて、作品自体よりもそっちの評価の方がやけに印象に残っていた、それで再見したいと思っていたのだ。

それにしても、これは若いうちに見ても面白くないよね。じゃあ、お前は歳を経たから面白く見れたのか?と言われても何とも言えないけどw、少なくともあの夫婦の会話からの痛々しいまでのすれ違いは、今になって見ると「なるほどな…」と思えてくるもの。

そして、この夫婦に対して物凄く突き放して描いてみせること。その突き放し方と、映画が意外なまでにテンポ良くすすむ様との融合がいい。いや、正直言って最初は若干違和感があるのだが、中盤のどんどん奥地に行くのと同時に旦那の様子や体調がおかしくなっていくあたりから、俄然うまく絡んでいくように感じたし、更にはヴィットリオ・ストラーロのぐるぐる廻る妙に豪快なキャメラワークや、坂本龍一の情感豊かな音楽(映画自体はあんなに突き放してみせるのに!)も相俟って、テンポの良さ=速球…というよりは剛速球に近いような、そんな印象さえ抱いてしまった。

それにしても、情感というかセンチメンタルさを拒んでいるように見えたなあ、それも徹底して。哀しみとかそんなんじゃなくて、ただ虚しい。それが最後まで続いてしまったという印象なのだ。だから、この映画のラスト。たしかおすぎさんは映画を絶賛しつつ「あのナレーションは無くてもいいわよねえ」と言っていたが、私はむしろあのナレーションでダメ押ししているのが凄いと思った。しかも唐突に終わるや、すぐにエンドクレジットが始まるのにも驚いた。あの抒情たっぷりの音楽がただ虚しく響きだし、気のせいかクレジットの動くスピードも生き急ぐように早く感じた。そこまで突き放すかというぐらいに。

ラ・ファミリア

一昨年の京都ドーナッツクラブの「イタリア名優列伝 ちょいワル篇」という特集上映で『あんなに愛しあったのに』と『スプレンドール』を、去年はDVDを購入して『特別な一日』を。と、日本での劇場公開のリアルタイムではそんなに興味もなかったのに(だって子供だったもん、しょうがないじゃ~ん)、イタリアのエットレ・スコーラ監督(昔はエットーレ・スコラと呼んでましたよね)に興味を持って、ああ、他のスコーラの映画もなんか見られないかなあ…と思っていたら、突然U-NEXTの見放題配信で未見だった『ラ・ファミリア』が入ったので驚いた……のが去年の暮れ。いつ見よう、いつ見ようと思いながら、すぐには見ないという悪いクセがついてしまっていた。

で、漸く見ました。U-NEXTの見放題配信にて、エットレ・スコーラ監督『ラ・ファミリア』(1987年)。

(以下、ネタはばらしてないつもりですが、真っさらな気持ちで見ようと思う人は、見た後で読むのを推奨します)

簡単に言うと、ある男の80年の人生を、外には出ずにあくまでも住処である家の中だけを舞台にして描くというもの。舞台となる空間の限定性という点では、ある意味『特別な一日』を更に突き詰めた印象があって(名作と誉れ高い『ル・バル』は未見)、リアル志向な今時の人なら「それは無理あるやろ」と思うかもしれないが、例えばあの長い廊下、舞台だったらさしずめ花道かという感じか。そして走馬燈のように流れていく主人公の記憶の数々は、まずはこの長い廊下を歩くことで始まっているようにも見えるほどで、この空間造形だけでもため息が出るほどだった。この記憶のひとつひとつが舞台劇の一幕ごとに見ている感じだし、更に各パートの時代の空気が、台詞やディティールを駆使して描かれていて、「説明的ではないのか?」という人もいそうだけど、映画は主人公や他の人々のそれぞれの人生を描きつつ、周辺の歴史や政治・社会というものやその変容をも見事に掬い取っていて、もしかしたらこの映画のもうひとつのテーマなのではと思えてしまう。

もうひとつ面白かったのは、実はこの主人公の男、一応それなりに幸せそうな人生を送っているようにも見えるのだが、だからといって「自慢話」というのではなく、むしろ「ままならないこと」の繰り返しであったという点。あまりにままならないので癇癪を起こしてしまうので、中には「なにこれ、嫌なオッサンじゃ~ん!」と思う人が出てくるかもしれない(主人公を演じるのがヴィットリオ・ガスマンに変わってからは特に)。コレに関しては私も何度もそう思ったので否定しない(笑)。でも、この映画はそれらを決してジャッジせずに、ままならないのもまた人生とばかりに淡々と見つめ続ける、その姿勢が私には良かった。

大人になった孫が、あそこの家の唯一の後継者だからなのか凄い爺ちゃん孝行なんで偉いなあ~と思っていたら……あら!? という場面が最後にあって、ああ~そういうことだったのね、と(笑)。でも、それもまた良し、なのだった。

月は上りぬ

(ネタバレ、あります)

JAIHOの配信で見た田中絹代監督『月は上りぬ』(1954年)を見た。

奈良に暮らす三姉妹の恋模様を描く。

中心になるのが北原三枝が演じる三姉妹の三女・節子なのだが、最初出てきたとき若いというよりは子供っぽい、それもちょっとやんちゃが入ったような感じで、山根寿子の長女・千鶴、杉葉子の次女・綾子の大人という感じとは実に対照的。近くの寺に下宿する青年・安井(長女の亡き夫の弟でもある)と三女とは何かと一緒にいるようだが、明らかに恋仲というよりかは、年上のちょっぴり不良なお兄ちゃんに年下のお嬢ちゃんが遊びに来てるという雰囲気。そこへ東京から仕事で関西にやってきた安井の友人・雨宮と次女の綾子とが互いに気があるのではと気付いた三女の節子が、周りを巻き込んでお節介を焼き始めるあたりから、映画がますます微笑ましくなってくる。

興味深かったのは、この三姉妹一家や周囲の人物の殆どが関西の言葉を話さなかった点。そもそもこの三姉妹と父(笠智衆)の一家は、戦時中に東京から疎開してきてそのまま居着いてしまったという経緯がある。周囲の人物も、台詞を聴いている限りでは、東京にいた頃から繋がりがあったように思われ、もしかしたらそれぞれに事情があって関東から関西へ居を移したのかもしれない。逆に下働きさんや女中さんはその言葉遣いからおそらくこの地、または近くで生まれ育った人と思われる。この下働きさんを田中絹代が演じていて、北原三枝との軽妙なやりとりから様々なギャップが想起されて、なかなかケッサクな場面だったが、同時にこの映画が「奈良の人々の映画」というより、「奈良に移り住んだ東京の人の映画」という印象を抱いてしまうのは私だけだろうか。

映画のラストは、ある意味、脚本を書いている小津安二郎の映画のバリエーションなのだが、父親から図星を言い当てられた長女・千鶴の山根寿子、そんな長女を後押しする父親の笠智衆、それぞれが演じた人物の陰影が深く刻まれる。同時にその場面で写される庭がどこか雑然とした寂しさを伴うものに見えてくる。このお父さんは、東京には戻らないどころか、ここで骨を埋める気でいるのだろうか。

それまで微笑ましい恋愛喜劇だったのが、そこで突然ドキリとさせられる。

フェイブルマンズ

イオンシネマ高の原で、スティーブン・スピルバーグ監督『フェイブルマンズ』(2022年)を見てきた。

正直見る前は、「見たいのだけど、これが映画愛とやらに溢れた映画だったら嫌だなー」というのは正直言ってあった。白状しとこう。

でも実際に見てみると、そうでもなかった。無邪気な映画愛を謳歌するような映画でもなかったな、と思ってホッとした。

そりゃ、確かにスピルバーグの分身となる主人公の少年が初めて映画を見て目覚める的な最初の場面を見ていると、うわ、「映画好き好き」映画なのかと一瞬ビビるのだが、そこから映画(『地上最大のショウ』)の「衝突」場面に執着していくというあたりから、「ん? これはただの無邪気な映画愛じゃあねえなあ」と思い始めた次第。

実際この映画は、無邪気な「映画好き好き」映画というよりも、スピルバーグ自身の自伝的な、ある種のプライベートフィルムとも言うべき映画で、ただプライベートフィルムというには随分金のかかった映画ではあるのだが、その意味では万人が見て「映画愛に溢れた良い映画ですねえ」みたいな感じにはならない。むしろ「映画」というものが、夢や興奮を与えてくれるものであると同時に、如何に陰惨なものであるかを描いて見せるあたりが、とてもいい。

興味深いのは、父と母、そして父の同僚の3人の描写が、見えないところで様々な葛藤があっただろう(それを匂わせる台詞は幾つか出てくる)が、最終的にはそれでも幾分綺麗に収まっているところだ。まあ、実際にもそういうふうにうまく(?)落ち着いたのかもしれない、ある意味「出来た」大人だったのかもしれない。

「ただ、そこで主人公が母親に対してああいう行動に出ずに、そのまま放置して、ただただ静観していたら、3人の関係はどうなっていただろうねえ。映画で描かれる以上に相当ドロドロした関係になって、物凄い陰惨な顛末を迎えたんじゃないか。そして、その関係の変遷をただジッとキャメラを据えて撮るように静観していたら、怖い、怖い子、この子は今のスピルバーグとは全く違う映画人生を歩んだかもしれないねえ…………」

と「私の中の淀川長治」が私に向かって語りかけてきて、家に帰る間、非常に困りましたw そうなると最後の対面シーンの相手はフォードじゃなくて溝口になっていたかも(大嘘)。

とまあ、それは冗談だが、でもあのお母さんがペットに小猿を飼い始めるところは、一瞬「スピルバーグが、大島渚へのオマージュか!?」と一瞬激しい妄想が。近いうちに大島渚の『マックス・モン・アモール』を再見したくなりましたw

あと思ったのは、成長した主人公を演じた男の子が、なんかジャン・ピエール・レオーを思い出して仕方がなかったこと。スピルバーグはこの男の子を主人公にして、自身の女性遍歴を踏まえたその後の人生を映画化すればいいんじゃないか。というか、是非見たい。そして、最後のキャメラの動き、あれは凄く凄く微笑ましかったです。

ぽんこつ

なんか急に、無性に見たくなって、U-NEXTから瀬川昌治監督『ぽんこつ』(1960年)を見た。

実は去年の今頃、U-NEXTで配信が開始されてすぐに見ていたので、それ以来となる再見。でもなんで急に、無性に見たくなったんだろう。まあ、時間が短いというのもあったと思う(なんとたったの81分!)。翌日早出だったしね(笑)。

それにしても、やっぱり面白い。

瀬川監督のデビュー作にあたるのだが、ハッキリ言って「やりたい放題」やってる感が凄くて。冒頭、自動車ブームに乗って事故が多発…というナレーションに、次々と自動車が突っ込んで事故、事故、さらに事故!という、今なら非常に不謹慎な悪ノリオープニングからしてそうなのだが、「リアリズム」の世界ではなくて完全に「喜劇」の世界なんですね。

だから冷静に考えたら、自動車解体屋…所謂「ぽんこつ屋」で働く青年と女子大生との身分違い(?)の恋愛なんて、格差や周囲の軋轢や壁に苛まれたりしそうな、色んな意味での「リアリズム」が描かれるシリアスな映画を想像しそうだが、そんな風情はほぼゼロ。むしろ出てくる人達がみんな多かれ少なかれ「ファニー (FUNNY)」な人々ばかりなので、真面目に考えたら嫌みになりかねない遣り取りでも、全然嫌みにならず、寧ろ可笑しさへと昇華(?)されていた。そして、二人の恋愛の紆余曲折を、一緒に走り回ったり、何かに妨げられ離れてしまったり、追いかけていったりといった、一種の「動き」=「アクション」によって表現していくあたりもいいし、なにより江原真二郎佐久間良子のふたりがいい。特に江原真二郎は最初見たときも思ったけど、滅茶苦茶チャーミングなのでビックリ。

あと、この青年と女子大生とが知り合うきっかけとなる、女子大生の卒論製作のくだりがそのまま映画製作ギャグになっていて、これが今見ても良く出来ていて可笑しい。ふと去年の京都国際映画祭のオンライン上映で見た無声映画キートンのカメラマン』を思い出したりもした。

 

この映画、実は阿川弘之の小説が原作で(ちくま文庫から復刻で出ているらしい)、私はまだ手に入れておらず、当然読んでもいないのだが、ぜひ読んでみたいと思った。ていうか、原作小説と映画と、どこらへんが同じで、どこらへんが違うのか、そこに興味が沸いてきたのだ。読んでないから憶測でしかないが、たぶんテイスト自体が全然違うような気がするんだけど…………果たしてどうだろうか?

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

出かけづらい…と標榜している日記だが、それでも、そろそろ、いいんじゃないか、出かけない訳じゃないもんね、ということで、久しぶりにシネコンで映画を見た。

ダニエル・クワンダニエル・シャイナート(通称ダニエルズ)監督『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022年)。

話題のアカデミー賞を席巻した映画です。

実はそこのシネコンアカデミー賞受賞の時点ではまだ1日3回上映していたのに、次の週から1日1回しかもレイトショーのみという扱いになることが分かり、いくら地方のシネコン、いくら『シン・仮面ライダー』や『わたしの幸せな結婚』が始まるとはいえ、せっかく話題になっているのにこの扱いはないよなあ、と憤慨しておりました。

そのこともあって、1日3回上映をしているうちに(それでもレイトショーの回だったんですが)見に行ったのです。同じ時間帯に『フェイブルマンズ』もやってて、正直迷ったんだけど。

 

まず見終わって思ったのは、よくぞアカデミー賞を取ったなあ、スゲえ~(笑)ということ。

とにかくマルチバース描写の過剰さには圧倒させられたし、見る側の余裕がないままにパパパパパ~~~~ッッッ!!!と展開する、いや、させられている感じは、「つ、ついていけない…」となる人も、そりゃあ出てくるでしょうよ。

それ以上に凄いのが、何かとんでもないことをしてバースジャンプが可能になる設定(これで合ってますよね?)で、これが物凄いことになっていて、アカデミー賞受賞の映画なのにあんなお下劣なギャグが出てくるなんて………と思いつつ笑ったし、もしアメリカ人で満員の映画館で見ていたら大爆笑で大盛り上がりになるのかな~? それは是非とも体験してみたいかも(笑)と思ったり。

でもこの映画がそれで終わらないのは、現実世界の登場人物にドラマがきちんと存在していること、それにどのキャラクターもそれぞれに抱えている事が「切実なもの」としてきちんと描かれていること、そこが最終的に非常に印象に残るんですね。しかも、例えばソーセージ指の人々のくだりなど、一見するとバカバカしくも感じるマルチバースの描写が、いつの間にか現実世界とに繋がって妙に感動的になるし。

その意味では現実の状況に思い悩む娘とマルチバース最強の敵というふたつの難役を見事に繋げて演じきったステファニー・シューが評価されるのは当然で、オスカーを受賞してもおかしくなかったと思う(勿論、ジェイミー・リー・カーティスの怪演も、ミシェル・ヨー、キー・ホイ・クワンも良かったんだけど)。

 

むかし『スイス・アーミー・マン』を見たとき、この作り手の人はヘンなことやってるけど意外と根は真面目かも?と思ったのだが、今回の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を見て、その印象がますます良い意味で強固なものとなったのでした。

買いだめしていたBlu-rayから、アンドレイ・タルコフスキー監督『鏡』(1975年)を見た。

『鏡』は以前、映画館で見たことがあった。今はなき天六ホクテンザでどういう訳かタルコフスキー特集が開催されていて(いま考えても解せないのだが、本当にどういう訳か天六の映画館でかかってたのだ!)、私はそこで見て、見始めてすぐに寝てしまうという自己最短?記録を持っているほどで、要はほぼ初見に近い。

その後、タルコフスキーの特集は色々な映画館であったのだが、『鏡』(と『アンドレイ・ルブリョフ』)はどういう訳か勤務と重なったりで見られるチャンスがなく、そのままになっていた。そこへ先日『鏡』2Kレストア版のBlu-rayが発売となり、それならばと思い切って購入し、遂にその封を開けたのだった!(大げさな)

とはいえ、不思議なもので、すぐ寝たとはいえどこか記憶は残っていて、冒頭突然登場する吃音治療の場面。あそこはなんとな~く覚えてましたね。いや、それがタルコフスキーの『鏡』の冒頭と直結していた訳ではないんだけど、でも、なんであんな場面が!?みたいな、ヘンな何かを見た記憶として、どこか残っていたみたいだった。

で、考えたらこの『鏡』という映画も、主人公である「自分」が過去にあった記憶?(それも多くは母親をめぐるもの)や、いま現在の「自分」の思いを巡らしたり、それらが一本のきちんとしたストーリーとしてあるのではなく、コラージュして綴られていく作品でもあると受け止めたので、まあ、一般的に言われてるように確かに難解ではあるんだが、寧ろ48年を経た今となってこの映画に接してみると、意外とすんなり見れてしまった…というか寝なかったのだ!!!(威張ることかw)

ただ、今回ほぼ初めて『鏡』を見て、少々ビックリしたこともあって、例えばそれは雨の中を母親が職場へと走り、仕事内容に失敗はなかったか急いで確認するくだり。そこでのカメラワークが物凄くエモーショナルで、いま見ても驚くのだが、そこで同僚の女性から「これだから旦那に愛想尽かされるんだ」みたいに延々非難されてしまう。

これ、一体どういう場面なんだろう。ていうか主人公の「自分」が持っている記憶なのだったら、何故そういう場面が出てくるのか? それともこれは「自分」が母親にそう感じていたの? ならば何故同僚の女性が出てくるの? 仮にそれが本当にあったこととして、何故それが映画に採用されるの? と謎だらけになってしまうのだ。

他にも、よくよく台詞を聴いていったら、この「自分」にとって母親とはあまり良き関係にはなっていないようで、だからこそ、屈折してますよね、これ。私は思わず寺山修司を思い出してしまった。『鏡』はどこらへんまでがタルコフスキー自身を反映、投影しているのか、どこらへんがフィクションなのか、よく分からないけど(セルフドキュメントみたいなフィクション?)、タルコフスキーにとっての『田園に死す』みたいなもんなのか?と思ったり。(違います)

 

あともうひとつビックリしたのは、思いの外、怪奇な描写が幾つかあったこと。なかでも個人的に好きだったのはコレ。

現在の「自分」が別れた妻との間にできたひとり息子を数日預かることになる。息子が父親(主人公である「自分」)のアパートにやってくると、そこに何故か女が座っていて、召使いが持ってきた紅茶を飲みながら、本棚にあるノートの赤線が引いたところを読んでくれと言う。この内容もまた不気味なんだけど、読み終えてふと視線を向けると、女の姿もティーカップもなく、しかしポツンと置かれた机には、熱い紅茶をいれたカップがさっきまで置かれていたと思しき熱気だけが残っていて、それもスーッと蒸発していく………悲鳴のような音楽と共に……。

思わず「黒沢清みたい」と息をのむ(笑)。

まあ、この場面が日本のホラー映画にどれだけ影響を受けてるとかは分からないけど、それよりもタルコフスキーってこんな場面を作るんだ、私が勝手に抱いていたタルコフスキー像って一体何だったんだろう、と思ったりして。

もっともそれは『僕の村は戦場だった』や『ストーカー』を映画館で見直したときにも抱いたことだったが。前者は若い男女の恋愛のくだりの描写で、後者はゾーンに入っていくところで一種の活劇みたいに感じるところで、それぞれビックリしましたからね。

 

とまあ他にも、冒頭の柵に腰掛けてる母親の元に男が現われ話しかけてくるシーンが大好き(タルコフスキーが作るチェーホフとか見てみたかったよね。いまやプーチンの忠実なイヌと化したミハルコフなんかにやらせずに)とか色々書けてしまいそうで、難解とか通り越して、なんだか妙に楽しく見てしまった、ほぼ初見の『鏡』なのでした。