洞窟

JAIHOで配信されてる、ミケランジェロ・フランマルティーノ監督『洞窟』(2021年)を見たら、これが素晴らしい傑作だった。

お話としては実在したイタリアの洞窟の探検隊の姿を捉えるのではあるが、隊の内部でどんな人物がいて、どんなエピソードがあって…みたいなものはなく、ただ単に彼らがある地方にやってきて、準備して、現場へやってきて、洞窟内部を探索する。それだけを引いた位置でキャメラが捉える。しかもディテールを詳細にとか顔や物のアップなどもほぼなし。彼らが探検する前に近くの町にやってきて教会に泊まる場面では、やってきた彼らとその地に暮らす人々が一緒の画面に収まっていたりもする。

で、それと同時に現場近くで羊飼いをしている老人の姿が捉えられる。これも引いた位置で美しい自然と共に捉えられるが、一方でこの老人の顔がアップで捉えるところも出てくる。皺の力強さがとにかく印象的で、顔と皺を見ているだけでも飽きないどころか感動的だったりもする。

映画はその両者を並行させて描いていくのだが、実は探検隊の面々と老人とは全く接点がないままで、ドラマティックな展開が起こることもない。それに両者の世界は言ってみればどれも小さな世界に過ぎない。にも関わらず、映画を見ていると、両者が共鳴しあって何かひとつの大きな世界を創り上げているような、大きなスケールを感じてしまうのだ。

レナート・ベルタの撮影が素晴らしい。地上の自然の美しさもさることながら、光の当たり方によって様々な表情を見せる洞窟の姿を見事にキャメラに収めていた(反響する音と共に、小田香監督『鉱 ARAGANE』を見ていてふと思い出した)。また、冒頭の燈台が見える場面からは、老羊飼いと若き探検隊とがいる位置の遠さと、同時にどこかひとつの大きな世界の中に両者がいるという感じが伝わってきて見事だった。

それにしても、これが日本では映画祭、CS、配信で公開されても、映画館で一般公開されていないとは、かえすがえすも残念。まあ、ドルビーアトモスで(つまりシネコンで)上映しろとまではいかないだろうが、ミニシアターでも十分見ておきたい映画だった(大阪ならシネ・ヌーヴォで見たいタイプの映画だな)。この監督の前作(『四つのいのち』)は日本でも配給・公開されていたのでなおさら映画館で見たいと思った。

湖の見知らぬ男

チョット前にJAIHOでアラン・ギロディ監督『ノーバディーズ・ヒーロー』(2022年)を見ていたのだが、うーむ、期待が大きすぎたのか、正直あんまり乗れなかった(これならカンタン・デュピューあたりに撮って貰った方が良かったんじゃないかと思ったのは……私だけだろうな)。

まあ、私はギロディの映画は『湖の見知らぬ男』と『キング・オブ・エスケープ』しか見ていないので、まだまだギロディの映画そのものを理解できていないのかも…と思い、他の作品(見た人からは面白いと聞いている『垂直のままで』など)をどこかでやらないかなあと思う(まあ、してくれるとしたら、今の現状ではJAIHOあたりの配信しかないだろうか。そもそも日本でのギロディ作品は映画祭や特集上映でかかる程度で、配給が付いての劇場公開作はまだない)。

とまあ、そんな不完全燃焼のなかで、やはりJAIHOで配信中のアラン・ギロディ監督『湖の見知らぬ男』(2013年)を再見。これは以前カイエ週間だったかで日本でも見られる機会があって、私は京都シネマで見ていた。

いやー。やっぱり面白かった。まず、どこか世間から隔離されたような湖、そこに集まってくるゲイの男たちのくつろぎ具合や視線などが相俟って、独特の空間造形、独特の雰囲気が醸し出されていて、再見してもやっぱりそこがいいですねー。

で、最初は主人公が相手を見つけようと躍起になったりと、そういう恋人を求めてのやりとりが描かれているのだけど、そのうち徐々に主人公と他の男たちとの間に考えや感情のズレが露わになって、そこに殺人事件も絡んできたりして、心理的にどんどん追い込まれていく様は、初見時よりもグイグイ引き込まれた。

そしてなにより今回の再見で一番印象深かったのはラストシーンで、考えたら画面的にはよくあんな撮影するなあと思うのだが、同時に「引き裂かれる心、それ故の虚しさ」が画面からドーンと迫ってきて、初見時よりも強い印象だったので自分でもちょっと動揺してしまった。

剣に賭ける

シネマ映画.comの「大映映画祭」から、田中徳三監督『剣に賭ける』(1962年)を見る。

すいません。のっけからなんですが、私、この映画の主人公である「千葉周作」のこと、全然知りませんでした(おい!)。

それどころか実在の人物であることすら知りませんでした(おいおい!)。

さっき、Wikipediaを見たら漫画「赤胴鈴ノ助」のモデルになった人物とあって「へ~」と思ったり(おいおいおい!)。

つまり、そんな程度の知識しかない私が何故わざわざこの映画を見たかというと、田中徳三監督の映画だったから。しかもシネ・ヌーヴォでやっていた田中監督の特集でもかかっておらず、市川雷蔵主演作とはいえ関西ではあんまり上映されてないのではないかなー。そういうレアな面にも惹かれたから。ちなみに今回が「本邦初配信」らしい。

 

で、映画を見た。

確かに最後まで楽しく見てはいたのだが、その一方で主人公の千葉周作市川雷蔵)が何を悟り、何を会得したかというのが、見ていてよく分からなかったというのが正直なところだった。

勿論、これは私が「千葉周作」に関することを一切知らないで見たのが最大の原因だと思う。私の無知が悪い。無知の馬鹿(笑)。ではつまんなかったかというと、全然そんなことはなくて、さっきも書いたが楽しく見たんだよね。そこがなんとも不思議。

思うに、もしこの「千葉周作」の葛藤や悟りを真正面から描こうとするなら、物凄く観念の世界に陥ってしまって、大映雷蔵映画のはずがATGばりの変な具合になってしまうんじゃないか(それはそれで見てみたい気もするが)。しかし、それでもなんとか映画として成立しなくてはいけないという中で、出来上がったのが本作ではないだろうか。だから、よく分からなくても画面は魅入る。少なくとも葛藤している感じはする。「助太刀はしないが見届けはする」という一連の場面でも、妙に暗い感じのセットや千葉の咄嗟の一声など、「なんだこれは!?」と思いつつ魅入ってしまうのだ。

あと個人的に印象深かったのがキャスティングで、浜村純と天知茂は特に詳しく台詞で説明している訳でもないのに、ちゃんとそのように見えて納得してしまうというのがなんとも不思議だった。特に天知茂の顔のアップには単なる仇討ち以上の邪悪な感じが天知の持つネットリとした色気と共に発していて、これは下手に説明を加えてしまうと台無しになってしまうなあと思うほどだった。

ただ、見終わって印象に強く残るのは、剣の話…ではなく、あの可哀想な芸者さんのくだりなんだよねえ。それに比べたら剣の話なんてどうでも…と、心の中で作り手が思ったかどうかは知らないけれど。

 

と、ここまで書いて、ネットで『剣に賭ける』のことを調べていたら、あらすじが書かれた文章に「千葉が道場を追われてから、赤子を持った狂女が出てきて、赤子を救い出す云々」というくだりが出てくるんだけど………配信で映画を見ててそんな場面、出てこなかったぞー。それとも私が誤って場面を飛ばしてしまったんだろうか? 確かにこの場面が無かったら、雷蔵の葛藤とか訳分かんないことになってるわなーと、ここにきて非常に焦り出す。しかし配信期間は終わってしまったので、今は確認することが出来ない。う~む。

問題の場面は実際にはあるのかないのか。さらに上映時間が71分と中途半端に短いことと、何か関係はあるのか。謎は深まるばかり。

地下街の弾痕

シネマ映画.comの「大映映画祭」でやってた(現在「大映映画祭」は終了)、森一生監督『地下街の弾痕』(1949年)を見る。なんでも「大映京都が国家警察大阪管区本部の協力を経て撮影された野心作」なんだそうで、今で言うところの大阪府警協力といったところか?

この映画が興味深いのは、ほぼ大阪を舞台にしているのに刑事たちが大阪弁を喋らないこと!

我々が想像するであろう大阪の刑事のイメージ、柄が悪くて、やくざと変われへん…みたいなイメージが微塵もなく、「そんなやつおらへんやろ~」と大木こだまさんよろしく呟きたくなるほどだが、よくよく考えたらこの物語自体も特に大阪を舞台にしなくても成立する話だし(もしかしたら海外の映画からのイタダキかもしれない)、そこは作ってる方も割り切っていたかもしれない。

リアルな大阪は言葉ではなく寧ろ風景の方にあって、戦後4年ぐらいしか経ってないなかで、これだけ復興を遂げているのかとチョット驚くほどの大阪の街並み(一部セットもあるとは思うが)が映し出される。その街中を二本柳寬や伊達三郎が歩いては聞き込みをしにいく、正に「捜査は足で稼ぐ」が実践される場面が出てくるのだが、そのときの人物をキャメラが横移動で捉えたり、普通の歩行者に混じって歩くのを捉えてみせるあたりなど、とてもいい。特に、二本柳寬が小さい子供と母親と思しき女性の間を割って入るように通ったのを、女性が「なに、この人? 失礼な!」とばかりに二本柳を睨みつけるのをキャメラがしっかり捉えていて、偶然だと思うがちょっとビックリした(演出だったらもっとビックリだが)。

物語自体は、非常に都合良く展開している印象も拭えないのだが(被害者の身元が判明するキッカケがあまりにも急転直下すぎて笑ってしまった)、例えば連行された菅井一郎を志村喬が取り調べ、嘘がばれて菅井の態度がどんどん変化していくあたりの芝居であったり、その嘘を立証するため部下の刑事たちが動いていく様のさりげなさであったり、また中盤と終盤に登場する人物の動きと編集とが的確かつ絶妙な大捕物の場面であったり、リアルとは違うところでの「映画」としての面白さが詰まっていて、最後まで楽しく見ることが出来た。

アラビアン・ナイト 第1部 休息のない人々 第2部 孤独な人々 第3部 魅了された人々

ようやく『アラビアン・ナイト』を見た。

といってもジョージ・ミラー監督の新作のことではなくて、JAIHOで再配信中のミゲル・ゴメス監督『アラビアン・ナイト』3部作(2015年)のこと。

正確には

ミゲル・ゴメス監督

アラビアン・ナイト 第1部 休息のない人々』

アラビアン・ナイト 第2部 孤独な人々』

アラビアン・ナイト 第3部 魅了された人々』

全三部で、あわせて6時間21分。ホントは分けて見ようと思っていたのだが、ついつい、続けてみてしまい、休日がアラビアン・ナイトまつり、ミゲル・ゴメスまつりに。

 

それにしても一言では形容しづらい映画だったな、と。

一応この映画の背景には、ギリシアの経済危機をきっかけにユーロ圏から資金調達が出来なくなってのポルトガルの財政危機、それに対し連立右派政権が行った緊縮財政により国民の生活が困窮、反緊縮デモの多発による政治危機といった、2013年から2014年にかけてのポルトガルの情勢があって、確かに映画を見ていても内容にも十二分に反映している。じゃあ、これがドキュメントタッチだったり、リアリズムで押しまくる映画なのかというと全然違っていて、ドキュメンタリーもあれば、明らかにフィクションもあったり、その中でまた違った話が展開されていったり、リアリズムかと思いきや突然動物の言葉は聞き取れる裁判官が出てきたら雄鶏が彼に語り出したり、と摩訶不思議な世界が展開される。しかも、各挿話はペルシャの王に毎夜、妻シェヘラザートが物語を語って聞かせる「千夜一夜物語」である、という体裁なので、呆気にとられてしまう。

勿論、作り手はポルトガルの厳しい状況を真剣に憂いていると思うのだけど、それをこんな風に語ってしまう自由さに惹かれて最後まで見てしまったように思う。

なんといっても、サヨムプー・ムックディープロムによる撮影が素晴らしい。アピチャッポン・ウィーラセタクンの映画のキャメラマンを務めている人で、なるほど彼へのウィンクかと思わせるシーンも出てくるのだが、例えば閉鎖される造船所での最後の船の出航場面で、港に集まる人々(おそらく造船所の作業員だろう)を前に悠々と出港していく船を遠巻きに捉えた画面の素晴らしさ。かと思えば、第2部の最初に出てくる話の、とりたてて凄いアクションシーンがある訳でもないのに、西部劇か活劇かとワクワクさせられるし、その話の終盤には物語とはまるで関係ないボーイスカウトの場面での怖さにはゾッとさせられるし…と、画面だけでも見所がいっぱいだった。

あと、この映画は話や各部を跨がって同じ俳優が違う役で出てきたりして、それだけでもこんがらがってくるのだが、凄いのはフィクションのパートとドキュメンタリーのパートとどちらにも出てきたりするので更にややこしい。私は最初、第2部の最初の話に出てくる「腸なしシモン」の役の人はポルトガルの有名な俳優さんだと思ってたのだが、第3部の鳥の歌声コンテストというドキュメンタリーパートにも出ていて、え?このパートはドキュメンタリーではなかったの?と思って調べたら、この第3部に出てくるのが本職で、つまり第2部での役者ぶりは実は素人なんだそう(この映画が日本初公開された2015年の広島国際映画祭での、上映後の監督のトークでの発言より)。さらに凄いことに、この第3部のドキュメンタリーパートには、それまでのフィクションパートに現われたキャラクターがしれっと登場したり…と。

勿論、映画で描かれるポルトガルの情勢を詳しく知りたいとは私も思うけど(その意味では何かパンフレットとか作ってほしいw)、それ以上に、なに?この自由さは!と、ただただ呆気にとられて楽しんだのでした。

ECHO/エコー

JAIHOで再配信されてたアイスランドのルーナ・ルーナソン監督『ECHO/エコー』(2019年)を見る。

 

サイトの解説にもある

「クリスマスから年明けまでを美しいポートレートとして描いた」

という文から、これまた甘ったるい映画になっていたら嫌だなあ~と思いつつ、上映時間が79分という短さに惹かれて(笑)見たのだが、これが思った以上に甘くない映画だった。

クリスマスから年明けにかけての様々な光景、全部で56の場面を描く。各場面に共通して出てくる人物はなく、それぞれの人々のそれぞれの一場面が淡々と描かれていく。

正直言って、「このやり方は今回だけですよ~」と思わなくもないんだけど、ただこの56の場面の画面の捉え方、ひとつひとつのクオリティはなかなか高いなあと思った。これがロイ・アンダーソンだったら見事に造られたセットで寓意的に描いて見せるところだが、こちらは画面の構図や人物の配置も的確でありつつリアルな感触があって妙に生々しい。そして話自体も、暖かさを感じるのもあれば、苦味や厳しさを感じるものも多くて、全体を通して見ると甘ったるくないのだ。ふと『いのちの食べかた』『眠れぬ夜の仕事図鑑』あたりのニコラウス・ゲイハルターの映画のタッチをちょっと思い出したり。

ところでこの映画、2019年の作品ということで、コロナ絡みの話は当然まだ出てきていないんですね。「ああ、そうか~、そうだよね~」と、見終わって改めて感じ入ったりもして、なかなか見応えのある映画だった。

ラヴ・アフェアズ

JAIHOで配信中のエマニュエル・ムレ監督『ラヴ・アフェアズ』(2020年)を見た。

 

不勉強なもので、私はこの監督のことは全然知らなくて、フランスでは軽妙な恋愛コメディの名手として「エリック・ロメールの後継者」「フランスのウディ・アレン」なんて呼ばれてる人だそう。

私はロメールやアレンを論じるほど詳しくはないので、後継者かどうかは置いとくとして、確かに面白くは見たんだけど、軽妙どころかそもそもコメディなんだろうか、と考え込んでしまった。

最初は、男女(ニールス・シュネデールとカメリア・ジョルダナ)それぞれの恋愛話が語られ、男女それぞれが恋愛に翻弄させられる様が描かれる。特に男の方の振り回され続けるあたりは演じる役者さんの良さもあって、まあコメディかなと思う。

しかし、その男女が互いに意識をし始めるあたりから、映画はどこか不穏な空気が漂ってきて、コメディというよりかは、どこか陰惨さを感じてきてしまう……のは私だけだろうか。

勿論、その陰惨さを楽しんで見ていた訳だが、特に印象深かったのはその女の相手の男(ヴァンサン・マケーニュ)と元妻(エミリー・ドゥケンヌ)とのくだりで、元妻の会話と表情から織りなす悟りのような感じと、それを増幅するような光の捉え方(あれ、絶対わざとやってるな)とか、もしこの映画がコスチュームプレイだったら修道院に行ってそうだなとか、切ないだけにチョット怖かったです。ちなみに元妻を演じたエミリー・ドゥケンヌ、見ているうちにダルデンヌ兄弟の『ロゼッタ』の頃を思い出して、時の流れと無常を感じひとりしみじみしました。

 

とまあ面白くは見たのだけど、同時に不満もあって、それはきっちり描いてみせた分、どこか窮屈な印象も抱いてしまった点。映画としての語り方以外にも、例えばシネスコの画面とか、既成曲の使い方とか、きっちりしすぎて却って余裕さを感じられなかった……というのは贅沢な言いがかりだろうか。